ディベート考

言語文化部・英語 助教授 井上奈良彦

 最近、連日のようにマスコミに登場する某カルト教団のスポークスマンJ氏がディベートの訓練を受けた者であり、その弁舌の巧みさを賞賛されたり、「うそつき」と呼ばれるのをテレビで見るのは、ディベートに永らくかかわって来た者として複雑な気持ちである。あの教団が宗教の道を誤った行き着く先の姿であるならば、J氏はディベート能力の誤った発揮の仕方を示していると言っていいだろう。

 ディベートの訓練は両刀の剣である。技術だけに関心が行き倫理面が疎かになると、白を黒と言いくるめる悪の技術に堕してしまうことは、ディベートの訓練の発祥とされる古代ギリシャの時代から懸念されてきた。宗教もまた、人を善の道に導くこともできれば、悪の道に導くこともある。こういったことは様々な科学技術についても同じである。人間の生活を向上させてくれるはずの技術が人間の生活や地球環境を破壊することもある。

 例外的なディベート能力の悪用が、せっかく学校教育の中にも実践が広がっているディベートへの関心に水をささなければいいのだが。同時に、ディベートの練習をする者、その指導に当たる者にとっては、ディベートの訓練が単なる技術の向上にだけ目を向けてはいけないことを改めて思い知らされる時でもある。

 日本におけるディベート教育は過去、何度か関心を呼びながら、いまなお広く定着しているとは言い難い。例えば、明治時代には、福沢諭吉らは三田演説会で「弁論会」と称した討論の練習を行い、くじで賛否を決めて論じ合うディベートもあった。第二次大戦直後には、占領軍の民主化教育政策の影響であろうか、各地で討論会という名のディベート大会が催され、新聞社主催の全国大会も組織されていた。しかし、こういった一種のブームは長続きせず、近年のディベート関係の出版物には新たな「草分け的」実践や指導者が登場する。

 そんな中でディベートの訓練を一貫して続けているのが、ESS(English Speaking Society)と呼ばれる(他の名称もあるが)英語クラブである。いわゆる「英会話」の練習をしていると考えられがちだが、中でも大学のESSのディベート・チームはディベートの試合に参加するための体育会系運動部の文科系版といった趣が強い。「トーナメント・ディベート」と呼ばれるこの形態のディベートは、自動車の運転に例えるならF1レース、百人一首なら競技かるた、といった世界である。現在は年二回全国統一論題が発表され、ディベートの「試合」に参加するチームは、部内や他校との練習試合をし、地区予選を勝ち抜いて全国大会に出場する(九大ESSも全国大会出場レベルの実力がある)。論題は社会性の強い硬派の問題を扱うことが多く、学生は図書館に通って資料を探し、連日遅くまで議論を組み立て作戦を練る。ちなみに今期の論題は「日本の司法制度に陪審制を導入すべし」というものである。私も、学生時代には専門の文学部の図書館より法学部や経済学部の図書館に足しげく通い、英文専攻の同級生や先輩には「あら、井上君、英文だったの」とか、「いつまでもディベートばっかりやってても、将来どうするの?」と言われたものである(結局、今もディベートにかかわっている)。

 この「試合」というのが曲者である。参加チームは同じ論題の肯定側・否定側どちらにも立てるようにしなければならない。大会では公平を期するために、立場を試合毎に交互に変えたりくじで決めたりする。これには、本来、物事の賛否両論を十分に吟味し、客観的なものの見方を養う、などの教育的価値がある。論題は賛否両論が同程度にあって、一方が正しいとは決められないものが選ばれているが、まかり間違えば詭弁の世界に陥る。現実社会の問題については、試合のための議論だけに終わらずディベートでの勉強を通して自分なりの考えを形成していくことが大切である。また、試合であるから勝敗があり、勝つためには何でもするといった態度が出てこないとも限らない。残念なことだが、証拠資料を歪曲して引用するチームも出てくる。もちろん、発覚すれば出場停止など厳罰に処せられる。

 ディベートの試合というのは「ゲーム」の仮想世界の中で議論をするので、現実世界のことにあまり囚われず、自由に議論の訓練を行えるし、勝ちたいという心理は向上心となる。反面、そこに「はまって」しまい倫理観などを麻痺させる恐しさがある。このバランスをどうとるか、教育者に課せられた使命である。かのJ氏も、連日のマスコミとの対応をゲームと考えているのなら、現実とゲームを混同する過ちを犯してしまっている。

 ディベートの悪用は、ディベートそのものの必要性を否定するのではなく、その適切な指導の必要性を示唆するものである。トーナメント・ディベートが発達してきたアメリカの学校にはコーチがいて大学院でディベート・コーチ法の授業があったりもする。スピーチ・コミュニケーション関係の学会ではそういった専門家が集まってディベートの議論や作戦の分析、教育理念、などが討議される。日本では、ディベート教育者・研究者の養成は遅れている。

(Radix(ラーディクス)九州大学全学共通教育広報 No.5 (1995.6.26))