国際教養学コースの非公式モデルとしてのESS
(ESS as an unofficial model for
IC)
井上奈良彦(2008年4月30日改定)
目次
1. はじめに
2.
高校(のESS)から大学(のESS)へ
3. ESSの活動内容
4. 討論・演劇活動の詳細・レベル
5.
まとめとプログラム案
英語支配についての補章「英語はただの道具ですか?」
1. はじめに
国際教養学部というような学部や学科(以下IC--International
Courseと表記)が日本のいろいろな大学で構想されたりしています。そのカリキュラムを具体的に想定するモデルとして、九州大学の21CPや他大学の国際教養学部などが考えられますが、もう一つの具体的イメージとして、私の体験を中心にESS(English
Speaking
Society)と呼ばれる英語クラブを紹介します。ESSは「英会話」の練習をする同好会的な軽い文化サークルという印象を持つ方も多いと思いますが、多くの大学ESSは体育会系運動部のようなコミットメントを求める知的活動団体という性格があります。
特に、私の学生時代(1976〜1980年京都大学)においては、教養部の授業の多くは講義形式で学生の参加も求められず、学生の知的欲求を満たしていませんでした。多くの大学の教養課程において同じような状況があったと思います。ESSの活動はある意味で現在の大学の少人数の学生参加型教育を課外活動という枠組みの中で学生自身が先輩から後輩へ提供していたと言えるでしょう。その後、大学が正規の授業科目として学生の知的欲求を満たす授業を開くにつれて、ESSの活動が衰退しているようにも思われます。また、体育会系のコミットメントを求めるようなクラブ活動を敬遠したり、英語教育も学内外でコミュニケーションを重視したクラスが学生に容易に提供されたり、他の要因もあります。
ただ、英語によるリベラルアーツ教育といったものを提供するICのカリキュラムにESSの活動形態は参考にできる部分も多いと思います。以下、私の体験を中心に紹介し、注釈を加えます。なお、九州大学の現在のESSはここで紹介するような硬派の活動と軽いノリの英会話サークルの間で揺れている状態かと思います。九州大学の今、という文脈において、ESSがどうあるべきかというのは必ずしも単純な答はないでしょう。
2.
高校(のESS)から大学(のESS)へ
私は高校時代にもESSに入っていたのですが、そこでは、有名なスピーチの暗誦、短い英語劇の上演などを節目の活動とし、日常的には英語総合教材によるリスニングやスピーキングを中心とした活動でした。ある程度の効果はあったと思いますが、大学に入って、ESSでさらに英語運用能力が向上することをさほど期待していませんでした。ESSに入ったのは、どちらかというと友達を作ったり、先輩から科目選択のための情報などを期待したというところでしょう。
大学の選択において、入学時に狭い専攻を選択しなくてもいいということは、京都大学文学部を選んだ理由でもありました。言語学や心理学をやってみたいなという漠然とした希望があったとともに、親は文系なら就職を考えて法学部か文学部なら英語教師にでもなれる英文科がいいのではというような考えでした。そこで、入学時には学科や専攻に分かれず、入学後に選択できるということが京都大学文学部を志望した理由の一つでした。
1976年当時の京都大学は、多くの単位を授業に出ずに「認定」してもらい、好きな活動に打ち込めるという状況でした。まだ学生運動がかなり残っていて、授業は学生のストなどにより開かれないこともあり、また、教養部の授業の一部は、カレーの作り方をレポートに書けば優がもらえるという○○学や、レポートを窓から投げて遠くに飛んだ順に成績がつけられると噂される□□学が開講され、大教室での講義は出席をとることもなかったと思います。さらに1、2年次に配当される文学部の授業や教職科目もいい加減なものが多く、履修登録をしていない教育原理の定期試験を受けると、どこからか解答が回ってきて、成績は優になったりしました。(出席していた別の教育原理の授業は「良」でした)。文学部の心理学の講義では教授が、ずっと黒板に向かってぼそぼそとプラナリアの反射の話しをしているのですっかり興味を失ってしまいました。この科目はレポートを出しましたが不可でした。一方、教授の顔を見たこともなく、定期試験がスト(学費値上げ反対か成田空港三里塚闘争支援か)によって中止になり、掲示板に張り出されたレポート題目を見て事務に提出した△△学は単位がもらえました。
このような状況のなかで、教養部の授業は語学と体育だけ出席に近い状態になり、専門の科目も専攻を英文学と決めた後は他の科目は出席もせず、みなレポートを書いて「認定」してもらったようなものでした。それによって空いた時間のほとんどをESSの活動に費やしていました。というより、ESSの活動にのめりこむ中で授業は最低限しか出なくなったというのが実情だったのでしょう。あるとき英文科の授業に出ると、同級生から、「あら、井上君、英文だったの?」と言われたことがあります。
英語教育に関しては比較的先進的な科目も開講されていて、いわゆる文学作品の訳読だけではない教育も受けることができました。これは評価したいと思います。LL教室を使った英語発音矯正を中心とした授業、英文を読む際に短いまとまりごとに目を動かす訓練をしたりする速読の授業、などがありました。英文科では英語論文の書き方の授業もあったのですが、これは受講せずに損をしたと思っています。卒業論文を書く際には、ESSで学んだディベートのスピーチの書き方がある程度役に立ったというか、それしか参考にできるものがなかったのでした。(アメリカ現代語学会MLAのスタイルシートはあり、卒論ではその書式に厳密に従うように指導を受けました。)
3.
ESSの活動内容
一般的に大学の活動内容の充実したESSの場合、大きく基礎的な会話練習、楽しみながらできるようなコミュニケーション活動、討論・演劇活動次のような活動を行います。
3.1.
会話練習
京都大学ESSの場合、昼休みに毎日、『アメリカ口語教本』という教材を用いて、上級生が教師役となり、3ー4人のグループで会話の暗記や口頭での文型練習を行いました。また、ニュースなどのリスニングや書き取りなどの活動もこの範疇に入るでしょう。これは、週3回の放課後の活動の一部を当てていたように思います。
3.2.
「楽しい」コミュニケーション活動
楽しいかどうかは個人差がありますが、歌やゲームなどの活動がここに入るでしょう。少人数での日常的な話題についてのGroup
Discussion や寸劇などもあり、次の討論・演劇活動との橋渡しをするものとして行われる性格もあるでしょう。
3.3.
討論・演劇活動
京都大学ESSでは、放課後週2、3回、全員が小グループに分かれて、暗誦(Recitation)、スピーチ、ディスカッション、ディベート、寸劇などの活動を行います。そこから学内外の大会に出場を目指して練習をします。さらに放課後大会参加者だけが追加の練習をしたり、全員が参加を求められる宿泊合宿などでも行います。多くのESSにおいては、このような活動はセクションと呼ばれるグループでそれぞれの活動を行うことが多くあります。また、大規模なESS(4年生までの部員数100人を超え、一時は1000人に達するようなESSもあったと聞きます)では、活動内容毎のセクションとともに、ESSの中のミニESSとも呼べるグループという単位に分割して活動を行っていたようです。
4.
討論・演劇活動の詳細・レベル
ICの非公式モデルとしてESSでどの程度の活動をするのかということを説明します。特にディベートについて詳述することになります。多くの活動は、アメリカでEnglish
Departmentから20世紀前半に別れてSpeech Departmentというものが成立し、そこでSpeech
(Communication)活動として行われているものが元になっています。
`4.1. 暗誦
Speech Communication学の専門分野ではOral
Interpretationと呼ばれ、声の調子などでどのように感情表現をするか、作品の解釈を示すか、という活動です。ESSでは有名人のスピーチなどを覚えて発音矯正をするとともに、暗誦大会がクラブ内部や学外の大会として開催されます。
4.2. スピーチ
Public
Speakingです。オリジナルの内容の原稿を作り、暗記して発表します。コンテストでは、原稿とテープによる予選を行い、本選では暗記による発表と質疑応答を行います。内容、構成、英語、デリバリー(声やジェスチャーなど)、といった観点から採点が行われます。内容は主に問題解決型の聴衆説得を目的するものが多いです。資料の調査などを少ししますが、実際のスピーチでは簡単な例や逸話の紹介などが根拠となるものが中心です。学生ESSとは別ですが、Toastmaster’s
Internationalという組織では世界大会まであり、日本各地にもクラブがあります。アメリカの学生スピーチ大会では、説得型スピーチでは証拠の引用なども行われ論文発表に近いものになります。また、ユーモアを中心としたスピーチなどの大会もあります。
4.3. ディスカッション
Group Discussionです。司会者(Chair, Discussion
Leader)がいて問題解決や合意形成を目指した少人数の討議です。クラブ内で行うとともに、他大学との交流、採点形式のディスカッション大会もあります。内容は比較的日常的なものから、社会問題を扱うものまであります。たとえば、エネルギー問題という広いテーマを設定して、いくつかの討議項目を設定しておき(現状のエネルギー消費状況、資源量、代替エネルギーの比較、政策的支援策、など)、各参加者はFirst
OpinionやIce-breaker
Speechと呼ばれる短いスピーチ(ペーパー)を発表し、それに基づいて質疑や討議を行い、司会者が一定方向に議論を導いていきます。
準備段階では、場合によっては数週間にわたって資料調査を行い、スピーチの原稿を用意し、同じテーマで何度もディスカッションを行います。クラブ内、近隣の大学との交流会、地区大会、全国大会などに出場するなどします。大会では、シーズンの共通テーマがESSの連盟によって決められていたり、大会独自のテーマを設定したりします。
4.4. ディベート
現在の大学ESSでは、イギリス系の即興型ディベート(Parliamentary
Debate)とアメリカ系の資料準備型ディベート(Academic Debate, Policy
Debate)が、ディベート大会の二大潮流になっています。それぞれ、日本のESSに呼称に従って、「パーラ」と「アカデミック」と呼ぶことにします。現在世界的には、英語によるディベート大会の主流はパーラであり、日本のチームも一部アジア大会や世界大会に出場していますが、あまり良い成績は上げていません。ICでチームを作って上位進出を狙うことも可能でしょう。
一方、アカデミックは、私の学生時代の主流でしたが、世界的にはアメリカと日本が中心です。現在日本のESSではいくつかの要因から人気が下がっていますが、一方、日本語によるアカデミックディベートがある程度広まりました。ICの活動の一つのモデルとして特に重要な活動だと考えます。
アカデミックディベートでは、概ね1シーズン(半年)に1つの共通論題が発表され(これ自体以前は学生の全国組織が決めていました)、その枠内で肯定否定側の種々のケースを用意します。1チームは肯定否定両方を試合毎に交換して行うので両方の議論を準備します。資料調査は場合によっては数ヶ月におよび、一般的な書籍、新聞雑誌記事だけではなく、ある程度専門的な文献も当たります。他の活動もそうですが、直接英語の文献を読むよりは日本語の文献を読んで、資料を翻訳して英語のスピーチの中で使うということが多いです。それでも、たとえば私は、経済問題が論題のシーズンには、Japan
Timesを見るだけではなく、日経新聞の週間英字誌を定期購読していた記憶があります。
私が扱った論題のテーマは、以下のとおりでした。
1年後期 教科書検定制度(1年2年前期は京都大学ではディベート大会に参加しませんでした。)
2年後期 日中平和友好条約
3年前期 貿易自由化
3年後期 原子力発電
4年前期 自衛隊の増強
(参考まで、2007年後期には日本語大会英語大会とも死刑廃止を論題としています)
当時は一つの論題について、複数の肯定否定のスピーチを準備するとともに、何十枚、何百枚となる引用カードを英語で準備し、カードボックスに整理して試合に臨みました。政治や経済の問題であれば、法学部や経済学部の図書館にも行き、原子力問題では安全性に関する論文などを見るために工学系の雑誌論文も読んだと思います。論題は、「原子力発電を廃止すべきである」ですが、代替エネルギーが問題になりますので、主要な代替エネルギーの経済性、安全性、資源量なども調べます。また、安全管理体制などが問題になると政治的な分野の文献も読みます。こういった調査やいろいろな議論の作戦をチームメートと話しあうことを通じて、文学部英文科でしたが、種々の社会問題を勉強することになりました。
大会に向けてクラブ内で準備をし、1ヶ月程度は毎週末他大学のチームと練習試合を行い、大会に参加すると、土曜に予選2〜4試合を行い、勝ち進めば日曜日に準々決勝、準決勝、決勝と進んで行きます。1チーム2人で1試合1時間半程度が現在主流の形式です。シーズン中に何十試合も行うことになります。
試合は英語で行われますが、資料調査の大部分や準備段階の作戦会議、試合中の作戦会議は日本語で行うのが通例です。これは、特殊な領域(domain)に限定した英語力の養成ともいえますし、このような活動を通して、アカデミックスキルを広く養成していると言っていいでしょう。
アカデミックディベートは日米の交流があり、私の場合は、来日したアメリカのディベートコーチと知り合った縁で(京都で1泊2日のワークショップがありました)、3年生の夏に3週間ほどマサチューセッツ州立大学で開かれたアメリカの高校生向けディベート合宿に参加するという「ミニ留学体験」をしました。
アメリカのディベート合宿では、高校生が数十人大学の寮に泊まり、大学の教員や学生院生からディベートの理論(論題分析の方法など)や戦術についての講義と論題内容(このときはアメリカのエネルギー自立)についての講義を聴き、グループに分かれてコーチがついてディベートの準備をします。合宿の最後には大会があり、1時間強の試合を1日に4ー6試合行います。私は見学ということで、試合には出場しませんでしたが、初心者の試合の審査員を教授やアメリカ人学生とともに務めるという経験をしました。
ここで学んだことは多く、私のその後の進路にも影響を与えたと思います。また、ちょうど日本の後期の論題が原子力問題でしたので、この合宿で入手した豊富な資料の一部(原子力や代替エネルギーの安全性の議論が中心)を日本の大会で利用できるという直接の効果もありました。資料は引用カードという形態で蓄積されるとともに、当時アメリカではそれをさらに論点ごとに短い準備書面にしたBriefsというものを作成するのが主流になっていました。高校生でも上級チームはそういう書面を何百枚、大学生のチームになると千枚を超える量をファイリングして試合に臨みます。現在では、コンピューターを試合に持ち込んで、画面上で資料を読むこともあるようです。
アメリカの大学生のトップレベルのチームはシーズンごとに論題について修士論文にも匹敵する資料調査を行うといわれています。もちろん、チームで協力しての準備ですし、教員のディベート監督や大学院生のディベートコーチがつきますが、チームは学部生が課外活動として参加します。
英語面で言うと、私にとってこれがはじめての海外渡航でしたが、ディベートについては講義もある程度理解でき、高校生の試合のメモを取って審査もできる程度に3週間でなったわけですが、日常会話はそれほどうまくいかなかったのではないかと思います。ここでも領域を限定した偏った英語力をとりあえず身につけていたと思います。(もっとも、一人で飛行機を乗り継ぎ、帰りの便の予約などを現地ですることはどうにかできたのですが。)
4.5.
演劇
演劇部の英語版です。学園祭の出し物程度から、外の劇場での公演もあります。私の場合は、大学1年生の秋ごろからESSの中で通常の活動に加えて公演を目指すグループを作り、1年生が役者、大道具製作などを兼ね、2年生が演出などを担当し、脚本の選定、台本読み、舞台稽古を経て二時間程度の公演を京都府立劇場を借り切って行いました。主に1年生の春休みに毎日にように練習を行い、2年生になった5月頃に公演だったと思います。邦題『毒薬と老嬢』という作品でしたが、グループで作品を完成させる過程は平坦ではなく、最後は感動へと昇華します。
5. まとめとプログラム案
英語による教養教育・学際教育という看板を掲げるICのカリキュラムに、ESSという課外活動が一つのモデルを提供できるのではないかと考え、私の経験を文章化してみました。これを踏まえてカリキュラムの一部と正課外の科目としての支援の可能性をメモしてみます。(私はいままでから、ESSのような課外活動の一部を単位化する必要性を考えています。)
5.1. ICEP (English Program)
基礎、中級科目として
当初は教員指導の下、徐々に学生主体の活動に移すとして、英語学習グループのようなものを作り、授業時間で足りないドリル的なものを課外に行う。昼休みや放課後の活動でもいいでしょう。動機や士気の維持のための学習グループによる支えあいという意味もあります。
5.2.
討論活動・ICEP上級英語・コミュニケーションスキル
カリキュラムとしては、次のような科目を開くこともできます。アメリカのSpeech/Communication
Departmentのイメージです。
Introduction to Speech Communication
Oral
Interpretation
Public Speaking
Group Discussion
Argumentation &
Debate
Drama (Theatrical
Production)
正課の科目では講義を中心として、課外活動(演習)として発表や試合を目指した少人数の活動を行うこともできます。
スピーチ、ディスカッション、ディベートなどの技法を学ぶことによって、クリティカルシンキングやアカデミックスキルの基礎、理論的説明を得るとともに、準備を通じて資料調査や分析の訓練を行い、学期ごとに別テーマを設定すると、さまざまな問題を扱うことができます。ディシプリンの導入としても、たとえば原子力問題を扱えば、工学的内容、政策・政治的内容、倫理的内容、などいろいろなアプローチが含まれます。
大会参加、試合の勝敗というのは、動機付けとして強く働きます。そういった競争活動について個人の好き嫌い向き不向きはあるでしょうし、勝利至上主義はスポーツ界同様の問題を生みますが、適切な指導の下に行えば大きな効果を発揮すると思います。
5.3.
集中講義・ミニ留学
私が学生時代に参加したような合宿を集中講義として大学で講師を招いて開講することも可能でしょうし、アメリカの大学などで日本人学生向けの合宿を設定することも可能でしょう。国際的に参加者を募集して実施されているWorkshopもあります。即興型のディベートにおいても同じような講義と実践を組み合わせたWorkshopがあり、これも大学で開くことも可能ですし、イギリスやアジア諸国の既存のWorkshopに参加したり、IC用合宿を設定することも可能でしょう。
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英語支配についての補章
(初出:京都大学ESS会報『Comet』2004年)
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「英語はただの道具ですか?」
「英語は単なる道具にすぎないのか?」と問われれば、答えは様々であろう。
「英語はシェークスピアをはじめとするすばらしい文化を持つ美しい言語である。その文化を熟知し、教養あるネイティブ・スピーカーのように読み書きできるのが目標。」
「そう、私は毎日仕事で使っている。必要な道具であって、それ以上でも以下でもない。」
「英語は世界共通語という名のもとに世界を支配しつつある。この英語帝国主義に対抗しなければならない。」
それぞれ、英語愛好派、英語道具派、反英語支配派、としよう。英語愛好派は英国好きであったりアメリカ好きであったりする。英語「命」を宣言し、いわゆる「ネイティブ」を目指して日夜研鑚に励む。道具派は、使えればいいと割り切る。世界中の人たちと仕事をすればよくわかる。インド人も中国人もヨーロッパ大陸の人々も、それぞれの訛りで英語を使っている。日本人も日本人訛りの英語でも堂々と渡り合えばいいのだ、と言う。反英語支配派は、英語帝国主義(覇権主義)に警鐘を鳴らす。英語が実質上の世界共通語として普及する中で、イギリスやアメリカの文化が世界を席捲している。英語の論理(話し方・書き方)が規範とされ、たとえば日本語は非論理的な言語と蔑まれる。発音や文法もいわゆる「ネイティブ・スピーカー」が基準・目標とされると、いつまでたっても英語学習者は劣等感にさいなまれ、英米人からは子供扱いされる、等等と批判する。
個人的な意見・趣味の範囲では、どのように考えようと自由であろう。問題としたいのは、このような考えのいずれかが、言語政策や言語教育を通して「制度化」する場合である。明治以来の日本の英語研究・英語教育の「発展」を支えてきたのは、英語愛好派を中心とする「英学(英文学・英語学)」の伝統である。中にはネイティブ・スピーカーよりも優れた英語の「達人」も現れた。ほとんどの日本人が実際に英語を使うことがない時代には、それはそれでよかったのであろう。ところが、英語を道具として使う必要が多数の人に生じ英語学習が大衆化した今となっては、大学英文科を中心とする「英学」の伝統(英語教師を兼ねる英語研究者の再生産)は日本の学校において英語教育の足枷となっている。
最近は、英語道具派には追い風の世の中である。グローバル化だなんだと言って、政府も英語教育改善を後押しする。大学や企業ではTOEICなどの資格試験が大流行である。英語研究者の間でも、日本のような「外国語としての英語EFL」とインドやシンガポールのような「第2言語としての英語ESL」との区別は薄れ、日本語母語話者の英語も間違った「和製英語」と卑下するのではなく、英語の変種(Englishes)の一つだという主張もある。まだまだ、その日本英語を実際に世界で認知してもらう努力は必要だが、いつまでもネイティブの影に萎縮している必要はない。日本文化を背負った日本英語を主張していこう、と道具派は唱える。
ところが、このような道具的考え方にも危険が潜んでいる、と極端な反英語支配派は言う。道具と割り切ると言いながら、結局はいわゆるネイティブ・スピーカー、特に英米の白人が基準となり、英語を使うことで知らず知らずのうちに英語支配の構造に組み込まれているのだ。では、どうすればいいのか。英語を使わなければいいのか。現実には難しい。英語支配を批判する研究者の多くは大学の英語教師として給料をもらっている。世界に向けて英語支配への問題を発信するには、英語で発表しなければならない。万が一、反英語支配過激派が主流となると英語教育は立ち往生しかねない。せいぜい英語支配に支配される危険を常に認識しながら道具として使う、あたりが現実的であろうか。
さて、ESSはどうだろうか?かつて反英語支配派からは、ESSは英語愛好派の巣であり、まさに英語支配の片棒を担いでいると言われた。おそらく、日本社会の変化に追随して、道具派が増えているのではないかと思われる。ただ、そこに無邪気な道具主義とネイティブ・スピーカーを基準とする「正しさ」が相まって、知らぬ間に英語に洗脳されているかもしれない。 一方、ESSは、幸か不幸か日本人同士で英語を使うというコミュニティーを作り出し、そこでは独立し安定した日本英語という英語の正当変種を発達させる基盤となっている。英語愛好派にとっては愁うべき事態が、反英語派にとっては思いがけない朗報かもしれない。
英語という言語の問題だけでなく、ディベートのようなコミュニケーションの方法にも似たような問題が潜んでいる。ディベートのようなコミュニケーションの方法・意思決定方法が世界共通なのだろうか。日本の伝統的なコミュニケーション方法(たとえば、延々と続く話し合いの末、暗黙の共通理解が得られる)はディベートなど「世界共通」の方法に取って代わられるべきなのか。「世界共通」は実はエリート層には共通でも各文化の土着の(伝統的な)方法ではない。それでも国際的なビジネスや外交の舞台では、エリート層を相手にするなら日本人も「世界共通」を身に付けるべきなのか。ここでも無批判なディベート教育推進は要注意である。
社会で英語を使って活躍されている皆様(道具派の理科系研究者を含め)からは、英語の教員は何を呑気なことを言っているのか。そんなことを言っているから学生の英語が上達しないのだと、御叱りを受けるかもしれない。しかし逆に、私は教育者・研究者の責務として、このような問題を考えていかなければならないと思っている。私自身、英文を卒業して中高の英語教師やアメリカ留学も経て、今は大学で英語やコミュニケーションを教えつつ、授業では英語支配の問題なども取り上げている――悩みつづけている。現役の学生諸君にも、英語はただの道具と割り切っていいのか、悩んでほしい。あまり悩んで英語学習ができなくならない程度でいいですから。
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