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らくがき読書録吉野弘『詩のすすめ』



吉野弘『詩のすすめ 詩と言葉の通路』(思潮社、2005)

 吉野弘は敬愛する詩人のひとりなのだが、どこが好きなのだろう。そう自分で問いかけてみる。まず何よりも、難解でないこと。わかりやすく、しかもまなざしが優しい。それでいてしなやかな論理性、柔らかい批判精神もある。

 一昨年だったか、言語コミュニケーション論なる講義を2回担当することになった。不慣れなこともあってひとコマ90分ひとりでしゃべるのは大変なので、間をもたせるために気にいった詩をいくつか資料として配った。そして学生にそのうちのどれがいいと思うか、感想を書かせた。いま思い出せるところでは、谷川俊太郎「七月」、永瀬清子「あけがたにくる人よ」、中桐雅夫「アイスランド・ポピー」などを取りあげた。Glayの「BELOVED」もあげておいた。(自分でも、ちょっと媚びているかなという感じもしたが、でもあのリーダーはセンスがいいと思う。)

 そのなかに吉野弘の「夕焼け」も入れておいたのだが、かなり好評だった。なんでも中学校だか、高校だかの教科書に載っていたそうだ。吉野弘の詩は、ふだんの生活のなかの何気ない光景にちょっとした気のきいた光をあてていて、そう言われてみればそうだよな、なるほど、と納得してしまう。それに適度な向日性があって、ときには深い慰めも与えてくれる。そんなところがいいのだろう。姪の結婚式ではスピーチで主賓が「祝婚歌」を贈っていた。「かたつむり」や「緑濃い峠の」などは、いま読んでも身につまされる。

 『詩のすすめ』は3つのセクションに分かれていて、第一部は吉野弘自身の詩論(というほどかたくるしいものではないが)、第二部は作詩のきっかけや意図など自作についての解説、第三部は石川啄木、高村光太郎、中原中也、立原道造、高見順の詩の解釈となっている。いずれも平明に、しかもなるほど詩とはこんなふうに書かれ、読めるのか、とすーっと頭にはいるように書いてある。吉野弘の柔軟な知性と発想の仕方がよくわかっておもしろい。

 たとえば、団地を巡回する鋳掛屋の「穴のあいた修理」という拡声器の声から、心の傷が傷のまま(つまり穴があいたまま)で時間に癒される状態をイメージしたり、また茶園の経営者から教えてもらった「成熟生長」という言葉から、ある年月生きながらえる生はそのなかに死を包含し、種として生を継続していくのだ、と気づいたり、といった具合だ。こうした例は枚挙にいとまがない。

 第二部の「自作について」で取りあげられているのは、「初めての児に」、「I was born」、「夕焼け」、「生命は」、「ステンレスという名のあなたに」、「花は開いて咲く」、「クローバー」の7篇。雑誌はもちろんのこと、企業や団体などの広報誌に「これこれこういう題材で」という条件つきの依頼に応じて書くこともあるそうだが、そうした際の詩の作法が具体的に説明してあり、とても興味深い。まず身のまわりの何気なく見過ごしているものへの小さな発見や感動があり、それを知的に処理して、詩行に構成していく。やみくもに情緒に溺れて、それを生のまま放りだすのではない。対象とのあいだに適度な距離感がある。かといって冷たく突き放すのではなく、あくまでもやさしくみつめている。そしてそこに生や死や時間などについての省察がくっきりとした像を結んで浮かびあがってくる。そこがこの詩人のすぐれた資質なのだろう。直観的把握をみずから論理的に読み解いてみせていて、常識の薄膜をはがしていくような心地よさがある。

 第三部のほかの詩人についての文章では、高見順の詩の分析、解釈がとくに秀逸。

 以下、本書からの抜き書き。


 「人間がエゴイズムから解き放たれるためには人間存在を相対化する視点と思想がなければならず、そのためには、人間を超える絶対者がなければならないという思想が必要な筈である。」(フランシス・ジャムの詩に触発されて書いた「フランシス・ジャム先生」という詩に関して)

 「創造、クリエートという言葉は、このごろ大層評価の高い言葉のようですが、創造の創が「きず」だということは意外に知られていないようです。(絆創膏という薬もあることです。)創造の創は、もちろん「物事の始まり、始め」という意味ですが、物事の始まりが「きず」だということは大変意味深いという気がします。/創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、何等かのきずを負っているのではないか。きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。 .../植物を挿木によって殖やす場合、枝の一部を刃物で殺ぎます。地中に挿しこんだ、その傷口から、初々しい根が生えます。このことは、「きず」と「創造」がまさしく一語の中の二つの姿であることを、感得させてくれます。」

 「思うに生命というものは、自己に同意し、自己の思い通りに振舞っている末には、ついに衰滅するような性質のものなのではないか、その自己完結、自己同意を破る力として、外部から殊更、他者を介入させるのが、生命の世界の維持原理なのではないでしょうか。この原理の中で、おそらくすべての生命が他者とのかかわりあいをもつように運命づけられているのではないでしょうか。/もしも、このような感じ方が見当ちがいでないならば、生命体はすべてその内部に、それ自身だけでは完結できない「欠如」を抱いており、それを他者によって埋めるように運命づけられていると言えるでしょう。実を言えば、「欠如を抱いている生命」という観念は、「他者」がひらめいたとき、同時に感じられていたものでした。」(「生命は」について)

 「ベッドに仰向けに寝ていると、涙がわいてきて、目尻から耳へ、一気にすーっと糸をひいて走ってゆく。愚かな涙よ、嘆きを、耳に聞いてもらいたいのか。お前には声がないではないか。涙よ、お前の嘆きが心に届いていないとでも思っているのか。だから耳を通して心に、嘆きを伝えにゆきたいのか。愚かな涙よ。涙も耳も心も、みんな私のものだ。悲しみをじっと耐えているのは、この私だ。/なんと心にしみる涙のスケッチだろう。耳に流れこもうとする涙を即物的に扱って、こんな簡潔な歌を書いた詩人は、そんなに多くはないだろう。」(高見順「愚かな涙」について)

(2008年12月26日)


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