田中俊也(Toshiya TANAKA)ホームページ

履歴

福岡県北九州市生まれ

学歴

昭和59年(1984年)3月 名古屋大学文学部文学科卒業(英語学専攻)

昭和61年(1986年)3月 名古屋大学大学院文学研究科博士前期課程修了(英語学専攻)

昭和63年(1988年)3月 名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程中退(英語学専攻)

平成17年(2005年)4月 連合王国マンチェスター大学よりPhD 取得(PhD in Linguistics and English Language, the Faculty of Humanities, the University of Manchester

職歴

昭和63年(1988年)4月 鹿児島大学教育学部専任講師

平成2年(1990年)10月 鹿児島大学教育学部助教授

平成3年(1991年)4月 九州大学言語文化部助教授

平成7年(1995年)3月から平成8年(1996年)1月 文部省在外研究員として、連合王国マンチェスター大学にて研修

平成12年(2000年)4月 九州大学大学院言語文化研究院助教授

平成19年(2007年)4月 九州大学大学院言語文化研究院准教授

平成23年(2011年)1月 九州大学大学院言語文化研究院教授(現在に至る)

 

自己紹介

当時は紫川のほとりにあった小倉記念病院にて生を受けたそうですが、小倉に住んだのも5歳まででした。父の仕事の都合で、その後大阪、東京、大阪、名古屋へと移り住むことになりました。でも、父方も母方も先祖代々北九州市近辺で暮らしていたらしいので、どこに住もうと、やはり自分は北部九州人、あるいは福岡県人であるという意識を、これまでずっと持ってきました。

しかしながらこのような事情により、「所変われば品(言葉)変わる」とばかり、引っ越すたびにその地の言葉(方言)を習得するという、恵まれた(!?)経験を重ねました。所詮は日本語の方言の違いに過ぎないのですが、関西と関東では音調パターンが顕著に異なり、小学生の時分にコード変換(code-switching)によってどれでも話せる、多言語(いや多方言)話者となりました。家では小倉の言葉、学校ではその土地の言葉、以前の学校の友達と再会すればその学校のあった土地の言葉を話していました。(この程度のことで、polyglot だったなどと自称して本当に大丈夫なのかどうかは、わかりません。)

後年30歳になるまでの3年間、鹿児島大学に勤務したものの、この歳になると鹿児島固有のことばの習得ができなくて、言語(いや方言)習得は子ども時代でないとだめなのだと気付きました。鹿児島弁母語話者の間に身を置いても、鹿児島方言固有のイントネーションを生成する規則(の集合)を自然に獲得するには至らず、適格(well-formed)な音調で発話できるようにはなりませんでした。

さて、小学6年生以降鹿児島に移るまで名古屋で過ごしたため、名古屋弁の音調パターンが今でも時折姿を現します。不勉強のまま3年を過ごして、愛知県立旭丘高等学校を卒業しました。勉強していないふりをしつつきちんと勉強していた同級生が多い中、私は勉強熱心でない生徒でした。ただし数学物理は例外で、それらは好んで努力しました。高3の時点では理系志望で、数学Vを学び、特に積分(integral calculus)の優美さ(elegance)に魅了されました。物理U(と化学U)も、もちろん履修しました。大学では、数学理論物理学を専攻したいと希望していました。

しかしながら、ある事が契機となって、理学(science)への志向よりも人文学(arts or humanities)への情熱が上回るようになり、名大文学部に入学し、2年生後期からは英文科に進学することになりました。(ただし、英文学コースではなく、英語学コースを選択しました。)そしてそれ以来、素晴らしい先生方に学恩をいただくことになりました。謹んで深い感謝とともに、記します。

 

恩師について

大学入学と同時に第2外国語のドイツ語を学び始めたものの、定冠詞(元々は遠方を直示する指示代名詞)が16通りに活用変化すると気付いた初期の段階でショックを受け、フランス語(定冠詞は le, la, les の3つの形だけです)を選択した方が良かったかと、後悔しかけました。しかし、そのショックから立ち直ってからは、難しいと思いつつも、辛抱強く、この言葉を学び続けました。(その恩恵に浴すこと、未だに続いています。)その翌年、それ以上に活用が多く、学習するのが困難なはずの言語を学ぶことになるのですが、難しいと思うどころか、心底わくわくどきどきしながら、夢見心地で勉強を続けることになろうとは、1年生の間には予想することもできませんでした。

 文学部の英独仏文科、言語学科、西洋史学科等に所属する学生は、ラテン語3単位が必須で、3単位取らないと卒業させてもらえませんでした。(なんと賢明な方法かと、痛感します。)私が2年生になった4月、最初のラテン語の講義で國原吉之助先生に初めてお目にかかり、手書きで作成されたプリントをいただき、先生固有のゆっくりゆったりとしたお話しをうかがいました。そうすることで、これから古代ローマ人が用いた言葉を学ぶのだという心構えとなると、酩酊するような気持ちになりました。大学という場所では、そんな信じがたいタイムトラベルのようなことが実現するのかと、ありがたいやら何とも言えない気分となり、1年半夢中で3単位を習得しました。國原先生の学恩は深く、3年生の前後期に、古典ギリシア語も2単位(これは必須ではありません)習得させていただきました。ラテン語の方はどんどん勉強が進んだように思われるのですが、ギリシア語は兎に角難解、手に負えないという気持ちで、必死で勉強しました。(毎週予習するのに、とても多くの時間と労力を要しました。)大正生まれの國原先生の優しく寛容なお人柄がなければ、ドロップアウトしたに違いありません。(後年ヴェーダ語を学ぶようになって、やっと古典ギリシア語が理解できるような気持ちになりました。Sir William Jones2 Feb. 1786)の気付きと共通する体験をしたのではないかと、思います。文法組織上共通するところがあまりに多いギリシア語とヴェーダ語を比較することから、印欧祖語がどのような言語だったか理解できるように感じられたわけです。)

 1年生が終る春休みから、2年生の夏休みまで、高校時代には熱心ではなかった英語の勉強も懸命に行い、夏休み明けの英文科の入学試験に無事合格しました。(当時の英文科は試験に通らないと、入れませんでした。だから、勉強せざるを得ませんでした。ドイツ語やラテン語の勉強と平行して、英語も猛勉強していたわけで、よくやれたと今では思います。実は2年生になると、フランス語も NHK のテレビとラジオの「フランス語講座」で、独学中でした。今では信じられません。若い頃のパワーは凄いものがあったと、年を取って思います。)そうして、英文科の2つのコースのうちの英語学コースを選び、3階の隅に部屋があった英語学研究室に所属することになりました。荒木一雄先生が教授で、何とも貫禄というものを感じました。記憶が若干あいまいなのですが、3年生の前後期に受講した英語学概論で、荒木先生から英語史についてかなりの手ほどきをいただいたように思います。それ以来、自分は英語史を専攻しようと決意したように記憶します。 can, may, shall, must などの法助動詞(modal auxiliaries)が、古英語の過去現在動詞(preterit(e)-present verbs)に由来すると知り、過去形を現在形として用いる動詞というものが英語に(実際にはすべてのゲルマン語に)存在するという事実に感銘を受けました。その結果、これらの(助)動詞と長年に渡って付き合うことになりました。(イギリスでの PhD 論文のテーマが、これらの奇妙な動詞の由来についての比較言語学研究となりました。)既にドイツ語、ラテン語、ギリシア語を学んでいたので、(古)英語もそれらの言語と同系であり、印欧語族に属すという知識はしっかりとありました。誰に勧められた訳でもないのに、風間喜代三(1978)『言語学の誕生:比較言語学小史』(岩波新書黄版 69)を読んでいたのが主な原因となったのでありましょう、印欧語比較言語学に強い魅力を覚えてしまい、後年これを学ぶこととなりました。

 名大英文科に提出した修士論文では、英語史における can may (過去現在動詞です)の意味変化のメカニズムを考察するものとなりました。この点、先行研究として中野弘三先生のご研究が、この分野への大いなる興味と関心を呼び起こしてくださるものとなりました。先生のご研究なしには、私の研究も始まらなかったに相違なく、ご高恩に深く感謝しています。英文科にて修士論文の口頭試問があり、英文学研究室の川崎壽彦先生尾美津雄先生より、拙論に関して貴重で有用、厳しくも温かいコメントをいただきました。ありがたいことでした。

私の論文の口頭試問には、言語学科教授であった矢野通生先生にも加わっていただいていました。言語学科での矢野先生の講義は、私が3年生の時に、 Ferdinand de Saussure (1916)『一般言語学講義』(Cours de linguistique générale)テクストの最新の文献学的検証についてのものを、受講させていただきました。試問の場では、矢野先生から、お叱りとお褒め両方をいただいたことを覚えています。そして、数日後(もう30年ほど経つので、こんな風に書き記してもよいと思うのですが)、矢野先生はある方を通じて、私を研究室に呼び出してくださいました。修士論文口頭試問の際に私に分かるように説明できなかったからということで、Ferdinand de Saussure (1879)『印欧諸語における母音の原始組織に関する覚書』(Mémoires sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennesの提案を端緒に発達した喉音理論(laryngeal theory)の手ほどきを、ご親切に face to face で行ってくださいました。印欧祖語における再建形を記すのに、3つの個別の音素として存在していた喉音(摩擦音)*h1, *h2, *h3 を欠く、Karl Brugmann Henry Sweet の時代の表記法では時代遅れだと、分かり易くご説明くださいました。(OED の語源欄が未だにこの状態に留まっているのが、残念です。時代に合わせて改訂できないものかと、願い続けています。)この時に矢野先生より賜った学恩が、今でも大きな感慨とともに蘇ってきます。英語学研究室所属で生成文法に依らない修士論文を書いた私に、矢野先生から「頼もしい」とお褒めのお言葉をいただいたことが、私の背中を大きく押してくださったように思われます。その後、英語学研究室に博士後期課程の院生として身を置きながらも、生成文法よりむしろ、印欧語比較言語学を志向するようになりました。英語は印欧語族ゲルマン語派に属する言語であるという視点から、自分は歴史言語学的な研究を行いたいと心に決めました。そうして今に至っています。

鹿大での3年の勤務の後、生まれ故郷に近い福岡市に移転することになりました。東京に住んでいた小学生の折、羽田から板付までジェット機で往復したことがありました。(当時はまだ YS-11 のプロペラ機が多かったように思いますが、羽田から板付はジェット機だったと記憶します。)その板付空港のある福岡市に(初めて)住むことは、子どもの頃からの憧れが実現する思いでした。(実際のところ、板付空港よりも、九大がある場所が福岡市だったからです。九大のことは小さな子どもの時分から、周りの大人たちから繰り返し聞かされ、私にとって憧憬の対象でした。)25年ぶり(ちょうど四半世紀ぶり)に福岡県に帰って来たという感激を胸に抱き、九大六本松キャンパスに勤務することになりました。

その後、連合王国マンチェスター大学に留学する機会を与えていただき、Richard M. Hogg 先生にご指導を仰ぐこととなりました。The Cambridge History of the English Language 6巻(Cambridge University Press)の総編集者(general editor)を務められた本場イギリスの英語史研究の大家に、(大学研究室宛に)手紙をしたため航空便でお送りしたところ、指導生として受け入れてくださる旨ご返信いただきました。その後、Hogg 先生(お許しを得て、Richard とお呼びしていました)には、マンチェスター大学の研究室のみならず、ご自宅の書斎においても、幾度となく研究指導(supervision)をいただきました。事前にお届けしたレポートに、知性溢れる刺激的(stimulating)なコメントをいただき、次の supervision に備えて関連文献に当たって調査し、先生の評言にお答えすべく準備したものでした。先生のご自宅は、マンチェスター郊外のアルトリンガム(Altrincham)の高級住宅街の端にあり、先生ご自身はモーターウェイ(高速道路)を使って、車で大学まで通勤されていました。ご自宅に呼ばれた際、私はマンチェスター・ピカデリー(Manchester Piccadilly)からメトロリンク(Metrolink; tram あるいは street car です)に乗って終点のアルトリンガムまで行き、アルトリンガムの停留所からは徒歩にてお訪ねしていました。そうして、過去現在動詞に関する博士(PhD)論文を何とか書き終えることができました。私の Doktorvater であるHogg 先生(あるいは Richard)は博学卓識、研究者としてずば抜けた頭脳を有しておられました。そして、それにも増して、その快活で寛大、誠実で親切なお人柄に、幾ら感謝しても感謝し足りない思いがします。

PhD 論文口頭試問(viva)の際には、内部審査員(internal examiner)の Martin Durrell 先生(マンチェスター)と、外部審査員(external examiner)の John Penney 先生(オックスフォード)に学恩をいただきました。おふたりからの鋭い追及や建設的批判があったからこそ、2011年の改訂版出版に繋がることになりました。イギリス留学時代を締めくくる、2005年早春(3月下旬)の思い出が、懐かしさとともに蘇ります。

 

 

 

 

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